History of Mokuyoukai
東京大学工学部建築学科卒業生および大学院工学系研究科建築学専攻修了生の同窓会として組織されております「木葉会」は、遅くとも明治30(1897)年に今とは少し性格の違う組織として活動を開始していました。このことは、建築史家でいらした故稲垣栄三先生(昭和23《1948》年第一工学部卒)が、昭和55(1980)年暮発行の「木葉会名簿’81」の中に詳しく書き記されています。木葉会会員や在学生等に広くその歴史を知って頂くために、ここにその全文を再掲致します。なお、稲垣先生のこの文章は「近代建築史研究 稲垣栄三著作集六」(中央公論美術出版)にも収録されております。
木葉会小史(稲垣栄三)
わが木葉会は意外に古い歴史をもつのであるが、戦前の活動はすでにほとんど忘れられてしまった。過日教室で木葉会規則の有無などについて話題となったことがあり、この際歴史を振り返ってみようということになった。以下、戦前の会の活動について、その概略を辿ることにする。この小史を編むに当って用いた資料はすべて本会の会誌と名簿だけであって、とくにこのために先輩のお話をうかがうことはしなかった。重要なことが落ちていたり、思い違いをした点が少なくないと思われるので、会員諸氏の御叱正をお願いしたい。
いま本会事務局と教室の図書室に残存している木葉会刊行物は次の通りである。
木葉会会誌 第1号 明治37年6月
木葉会会誌 第3号 明治42年2月
Koppa (第1号) 大正15年11月
Mokuyo 第2号 大正15年12円
木葉 第3号 昭和2年春
木葉 第4号 昭和2年6月
木葉 第5号
木葉 第6号 昭和3年2月
木葉 第7号 昭和3年7月
木葉 第10号
木葉 第11号 昭和4年12月
木葉 第13号 昭和6年春
建築 再刊第2号 昭和12年2月
木葉会雑誌 第5号 昭和14年12月
木葉会名簿 昭和16年12月
木葉会名簿 昭和18年12月
木葉会名簿 1950 昭和25年9月
木葉会名簿 1956 昭和30年12月
これ以後、木葉会名簿はおなじ体裁で毎年出版されている。なおこのほか、後述のように数点の単行本もある。
以下の記述に当って、出典が上述の会誌・名簿に限られているので、いちいちそれを明記しなかった。本稿のために資料を提供された宮崎万寿・菊池保子の両氏ならびに資料の整理に当られた田中晶氏に感謝の意を表する。
木葉会が正式に設立されたのは、創立大会を開催した明治30年2月11日とすべきであろうが、その前年秋にはすでに実質的な活動が始められていたらしい。すなわち、在学生と数名の卒業生とによって開始された会合が本会の母胎であって、創立大会以前に毎月の例会が催されていた。例会は年7回、幹事と会場は毎回持ちまわり、各自油絵やスケッチを持ち寄って相互に批評をし、投票によって等級をつけるという催しであった。例会は発足当初とくに絵画に重点が置かれており、時に遠足や一泊旅行を行っているのは皆で写生をしたのであろう。木葉会という名称も、絵画中心の会という性格に由来しており、この名は木葉(このは)天狗の集いの意味であるという。辞書に木葉天狗とは「威力のない吹けば飛ぶような天狗」とあるから、自信を内に秘めた自称天狗たちの謙称に発すると考えてよいであろう。
創立大会の状況はわからないが、以後毎年紀元節の日の紀念大会、ならびに毎月の例会がしばらく順調に聞かれてゆく。例会は送別会や新入生歓迎会も兼ねており、宴会は会場を会員宅から料理屋に移して行われた。最初の数年間は、毎回15名ないし20名程度が例会に出席しており、当時の学生数を考えると極めて盛会だったといえるであろう。例会には学生・卒業生のみならず教官も参加しており、とくに塚本靖先生の出席がないと絵の批評が低調だったらしい。明治30年10月の例会で会員章ができ上り会員に頒った。このメダルで絵画共進会や白馬会に無料で入場できるようになったという。
明治38年11月の第38回例会で決議案なるものが可決されている。それは、会員を建築学科の教職員・卒業生・在学生に限り、会費を毎月10銭とし、時々図案の課題を皆に課そう、というのであった。そのころ建築学科以外で絵画に熱心な人が多数入会していたのであったが、今や絵画研究は目的の一端ではあってもすべてではなく、むしろ卒業生と在学生の接近をはかるためには他学科の人を交えない方がよかろう、というのがその趣旨であった。やがてこれが明治36年の第6回紀念大会において木葉会会則として成文化される。15条の条文をもつこの時の会則は、ほぼそれまでの活動を基礎として作られており、第2条に「本会ノ目的ハ美術建築及ビ之ニ関スル各般ノ芸術ヲ研究シ併テ会員ノ親睦ヲ厚ウスルニアリ」と記されている。会の運営はすべて学生に委ねられていて、会長は置かれていなかった。この会則の第9条に毎年2回会誌を編さんすることが謳われ、翌年6月、はじめて「木葉会会誌」第1号が発刊される運びとなった。
明治38年4月、建築学科展覧会と木葉会展覧会が同時に開催されている。会場は大学であって、学内一般公開の早い方の例であろう。この時水彩画数百点、写真数十葉が展示され、3日間の観客4,000名、「蓋し木葉会の内容を世上に紹介せし嚆矢なり」とある。
このときの展覧会については、佐野利器先生が建築雑誌221号に紹介しておられる。それによると建築学科展覧会はきわめて大掛かりなもので、教室・列品室・模型室・陳列室・図書室などをすべて開放し、模型・遺物・図面・写真などを並べ、担当教官が懇切に説明するという、教室を挙げての行事であった。木葉会展覧会はそのうちの一室を割当てられたもので、佐野先生はこれを評して、「太平洋画会若しくは白馬会等の展覧に比すべくもあらずと雖も、会員には又健腕の徒少なきにあらず、或は云はん嘗て上野に行ひたる女子美術家の展覧会の如き、蓋し之に比して遜色なきや否か」と記した。
明治時代の隆盛はこのあたりが頂点であって、つねに盛況を持続したわけではなかったらしい。しかし、絵画の出陳を主たる内容とする親睦の集りは、消長を繰り返しながら、ともかく明治から大正にかけて存続したのである。
大正時代の状況は質料が皆無で全く不明であるが、のちに(昭和14年)藤島亥治郎先生が回顧するところによると、先生の学生時代(大正9-12年)の木葉会は、展覧会は時々開かれてはいたものの、会長も設けず、入学の際の歓迎会もなく、雑誌も出さず、いたって無意味退屈なものだったという。明治につくられた会の性格は一応維持されてはいたが、当時ほとんど活気を失っていたということであろう。
大正15年11月にいたって会誌が復活する。学生が奮起して刊行に漕ぎつけたものらしく、復刊1号から3号まではガリ版、4号から活版となって、少なくも昭和6年の13号までは順調に出ている。各誌の内容は明治の頃と大同小異であるが、ペンネームや漫談調がなくなり、実名による生真面目な寄稿によって占められているのは時代の反映を示すものであろう。誌面から学生の熱気が伝わってくるような趣があって、編集者は執筆者に溌剌たる主張を期待し、外国文献の翻訳を歓迎するが間にあわない時は編集者が暇な人に依頼するなどといっており、総じて会の運営は少数の在学生の奮闘に負っていたもののようである。このころは絵画展や遠足が活動の中心だった形跡がなく、むしろ会誌の発行に主力が傾注されたらしい。
なお、建築雑誌325号(大正3年1月)に「木葉会の出版物」という記事があって、それによると、それ以前に「西洋家具集」「日本建築図集」の2種が木葉会から刊行されており、これらを実費を以てとくに会員外にも頒つ、とある。また昭和3年ころ、木葉会編、洪洋杜発行の「東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集」も出版されている。
昭和12年2月に「建築」再刊第2号が出ているが、この再刊の意味がわからない。昭和6年から12年までの間が空白であるが、この間にこれの前身が出ていたのであろうか。これに続く昭和14年12月の「木葉会雑誌」が第5号とあるのも不審である。ただこの2冊によると、木葉会の行事は一層活発となって、座談会や見学会などもしばしば開催されており、昭和14年7月に最初の名簿を発行している。後者の誌上で「木葉会歌」を募集したが応募が少ないので期限を延期するとある。次の昭和16年の名簿には初代会長藤島先生作の会歌が掲載されているから、適当な応募作がなかったので会長自ら作成されたのであろう。
昭和16年にいたって木葉会の性格は一変する。これまでは一貫して学生の自主的に運営する会という性格を保ってきたのであったが、16年春、大学に全学会が結成され、その下に各学部会、学科会が組織されることとなって、木葉会もこれに組み込まれ、この会の学生自治の伝統はここに終りを告げたのである。同年7月新たに会則がつくられ、親睦を目的とする点は変わらないとしても、行事は「建築学科教官ノ指導ヲ受クルモノ」とされ、また会長には教室主任が当ることとなった。しかしこの年には旅行、野球大会、座談会をはじめ、年に数回最新建築の見学会を催すなど、なお活気が残っていた。
昭和17年4月、第二工学部の設立に伴って木葉会にも改組の必要が生れた。木葉会は第一・第二両工学部の建築学科を含む会となり、これとは別に「学生の訓育といふ立場から」学部別に建築学科会が生まれた。名簿発行、歓送迎会、懇親会、卒業生との連絡はすべて木葉会の事業とされているが、学科会がどのような活動をしたかについては何も記録が残っていない。
戦後の名簿発行は昭和25年9月にはじまる。戦後の会の著しい変化は、名簿発行が主たる仕事となったことと、不定期に開催される総会が唯一の会合になったことである。戦争初期にすでにその予徴があったとはいえ、戦後の木葉会には戦前の俤がない。名簿は昭和30年12月に2冊目が出され、以後は毎年暮に刊行される慣行となった。また戦前の会則などにも全く手をつけないまま今日に及んでいる。