Department of Architecture – The University of Tokyo

1967年卒業生が50年会を開催

5月26日(金)、1967年卒業生による50年会が開催されました。

卒業生を代表して今井弘様より、盛会の模様のレポートおよびお写真をいただきました。


1967年(昭和42年)卒業生の50年会

2017年5月26日(金)に、東京大学本郷キャンパスで、1967年(昭和42年)卒業生の50年会を行いました。午後3時に工学部1号館前に、同期生27名が集まりました。50年前の卒業時には同期生は43人でしたが、すでに6人が亡くなり、また、仕事多忙や体調不良などで10人が欠席したため、結局、出席者は同期生27人と同伴家族3人となりました。

3時過ぎに全員が集合したことを確認して、懐かしい工学部1号館の正面で、集合写真を撮りました。その後、千葉学教授の案内で、工学部1号館を見学しました。工学部1号館の正面は、昔の姿のままでしたが、建物の内部は大きく変わっていました。学生時代に多くの時間を過ごした昔の製図室は、今は研究室として使用されていて、中庭だった空間に製図室が新設されていました。また、15番教室の後部座席に通じるホワイエも増築されていました。15番教室で、千葉先生が話された本郷キャンパスの施設計画は、初めて耳にすることばかりで、特に興味深く聞きました。4時頃にまた1号館の正面前に戻り、見学会が終わった頃には、1号館の大改造をネタにして、会話が弾みました。また、この見学会で、大発見もしました。故二瓶博厚君が若かりし頃に製作した陶板壁画が、建築学科旧図書室(今は多様な造形製作ができる工房?)の壁面に、物陰に隠れて現存していることを確認したことです。

宴会の前に、ここで小休止の時間をとりました。小グループに分かれて、懐かしい学内を散策したり、また、総合研究博物館の特別展示「赤門―溶姫御殿から東京大学へ」を見たりして、時間を過ごしました。

午後5時に、赤門近くの伊藤国際学術研究センターの2階のファカルティクラブに再集合し、入口で50周年記念文集を受け取りました。私達の同期会では10年ごとに記念文集を制作しており、今回が5回目です。

宴会に先立ち、最近亡くなられた同期生の後藤立夫君と二瓶博厚君のご冥福を祈り、黙祷を捧げました。後藤君は、弟子をたくさん持つ有名な俳人で、2年前の教養課程修了50年会には夫人同伴で出席され、面白い近況報告をして宴を盛り上げてくれました。二瓶君は、上野の森美術展に毎年入賞して、ミニ同期会の機会を作ってくれましたが、初の個展開催の直前に亡くなられました。誠に惜しい友を失いました。
次に、会計担当の高橋琢郎君と記念文集担当の生田目武久君から、簡単な報告がありました。

いよいよ、開宴です。最年長の宮本明雄君が乾杯の音頭をとりました。氏は、電気工学科大学院(博士課程)修了後、会社勤めしてから、建築学科に学士入学されたので、同期生と言っても特別な存在です。

その後、会食しながら全員が近況を報告しました。欠席者の近況については、幹事から報告されました。栗原信弘君の尺八と山崎真司君のフルートで、「男はつらいよ!」を演じ、宴は盛り上がりました。立食パーティー形式でしたが、周辺の椅子に座る人がだんだんと増えてきました。工学部1号館の見学会からずっと立ち通しで、疲れたのでしょう。しかし、途中で退席したり、気分が悪くなる人もなく、全員、最後まで楽しく過ごしました。

お開きの予定時間に近くなり、次期幹事を決めてから、記念写真を再度撮りました。すべてがうまく運び、大盛会の50年会でした。

「同期会の過去の主な活動」について、ご紹介します。
1967年(昭和42年)卒の同期生は、5年ごとに1泊2日の同期会旅行を行ってきました。また、10年ごとに記念文集を制作してきました。この他、同期生が学会賞や絵画展などで受賞する度に、お祝い会を開いて、旧交を温めてきました。

今回の記念文集は5回目です。文集を5回も制作できたのも、生田目武久君の奥様のご尽力のお蔭です。記念文集の内容は自由で、日常考えていること、感じていることを書いています。10年ごとの記念文集を読み返すと、環境の変化に対応する同期生の姿が反映されていて、昔の同期生の姿がよみがえります。

私達が建築学科に進級した頃は、新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された直後でした。その後にも大阪万博が開催され、建築活動は活発で、華やかな時代でした。

卒業10周年の頃は、建築に対する学生時代の夢と実社会の活動との大きな落差に驚きながら、夢中に実社会になじもうと努力しています。

卒業20周年の頃には、バブル景気の前後の建築界の急変を経験しました。建設会社は海外工事に手を出すことになり、海外に派遣された同期の友は、建築設計や施工の契約や習慣に関する国内外の大きな違いに驚いています。

卒業30周年の時には、日本経済がまだ回復していませんでしたが、東京では湾岸の再開発が進み、超高層が林立するようになりました。また、阪神大震災によって、防災に対する建築技術者の意識がさらに強くなりました。私生活では、子供の教育がやっと済んだと思ったら、親の面倒が始まりました。

卒業40周年の頃は、建築士の信頼を失墜させた姉歯事件をきっかけに、建築士を取り巻く問題点や背景について、考えさせられました。コンピュータは、不可欠なものになり、仕事だけでなく、日常生活の隅々まで浸透してきて、生活様式まで変わってきました。その中で、人間臭い建築学を専攻したことを肯定的に振り返り、後輩の指導などに生きがいを見出しています。私生活では、定年退職直前に入り、ゆったりとした余暇を享受しています。

卒業50周年の文集からは、同期生の現在の心境が読みとれます。同世代の友人の訃報を受け取ることが多くなり、また、心身の老化現象を感じることが多くなるにつれて、終末の生き方を意識して考えるようになりました。若い頃の社寺仏閣巡りは、観光でしたが、今は人生や宗教などを考える場となっています。特に東日本大地震の津波被害や福島原発事故の後は、技術を過信せず、自然と共生する大切さを再認識するようになりました。